イレスポジーさん見ていますか

イレスポジーさんがここを見ているかわからないけど、
なんとなく見ている気がしています。
イレスポジーさんがどんな思いでアカウントを消したか僕にはわかりません。
でも、想像はしました。
多分イレスポジーさんと僕は似ている所があると思います。
16パーソナルズで僕と同じ提唱者型だったのが印象に残っていて、
人との関り方を見ていても何となくそんな気がします。
アカウントを消したのは何故か、わからないなりに色々考えました。
SNSと距離を置いた生活をしたいというイレスポジーさんなりのバランス感覚かもしれないし、
決してシリアスな心情ではなく落ち着いた感覚で消した可能性も考えました。
もし自分への否定とか何かしらの責任感で消したのだとしたら、とも考えました。
あくまで僕からの、想像上の見方でしかありませんが、
イレスポジーさんがSNSでの自分のこれまでの居場所を否定しなければならない様な事は、
起こっていないし、していないと思っています。
イレスポジーさんと初めてやりとりをした時の事や対面して話した事を思い出します。
イレスポジーさんが戻ってきたら嬉しいなと思っている人は沢山居ると思います。
僕もその一人です。

201901151254

比喩ではなく、物心ついて間もない子供が、
祖母の排泄物が溜まったオムツの替えを手伝う時の気持ちなんて知らなくていいし、
就職活動で面接を受ける時の俎板の鯉みたいな気持ちを知る必要はないし、
大作RPGを発売日にゲットしてウキウキ気分でゲームスタートした時に
ゲームクリアまでに作業的な戦闘を何回こなしてそれに何時間かかるか知る必要はない。
ものごとを知る上で最適なタイミングというのがある。
そもそも知る必要がない事というのもある。
それはきっと複雑すぎて完全にコントロール出来ないけど、
ある程度ザックリとなら予測して制御できる。
子供に一定の年齢までネット環境を持たせたくない親の気持ちは、
以前よりもずっと現実的に想像できる。
法律で定められた成人の年齢が真に適切かどうか誰も知らないだろうし、
まず人によって何歳に成人とするのが適切か違うかもしれないけど、
それでも、誰も知らなくても「決めておく事自体が重要」だと分かる。
人間の成長規範が一律ではないからこそ、決めておかなければ社会が機能しない。
そこでヒューマニズムを持ち出して子供の人権に寄せる事も、
結局はどこからが「子どもの人権侵害になる」か無理にでも決めねばならない。
子供の人権侵害という事だから大人とは区別せねばならない訳だが、
それ自体が結局は「子供か大人かをある種強引にでも決めてしまわなければならない」事だ。
流石に「子供と大人の区別を全部無くしてしまえ」という主張が市民権を得られないのは、
とりあえず子供と大人の違いを無理にでも決めないと始まらないという暗黙の了解からだろう。
単純に根拠を見つけてから決めるべき段階と、
「まず決めねば始まらない、というタイプの根拠」を認識せねばならない段階がある。
社会のルールはその全てが、
「神でもないのに奢った人間が決めるイケ好かないルール」
…という訳ではなく、
「不完全な人間の集まりだからこそ強引にでも決めておかねば暮らしが成り立たないルール」
…が数多く含まれてると思う。
気に入らないルールがあれば一つ一つ無闇に感情的になるのではなく、
成り立ちを理解した上でどう振る舞えばストレスや可能性の制限を避けられるか考えたい。
こういう問題でシリアスになり過ぎず、
ある程度噛み砕いて認識が安定したら単なる一つの生活の情報程度に捉えたい。

201901110936

合理的である事を醜いと思った事はないけど、
根本的に他者を意識できない(様に見える)人が
何かを慮っている(様に見える)ポーズは無機質すぎて
火の鳥・復活編のあるシーンを思い出す。
主人公のレオナは事故による脳の損傷で有機物が無機物に見えてしまう。
現実にはある意味温度などないという認識が(暫定で)あるけど、
またある意味では、その温度がない世界に対する妄想こそ人間的という気もする。
ただの妄想で終わる事が人間的というのではなく、
その妄想について疑ったり検証する意思がある事は更に人間的だと思う。
「人間的であること」が無条件に正しく美しいという話ではない。
他人の感じる温度を見透かす事が不可能だからこそ、
それを想定する前提がなければ余りにも寒々しい世界だ。
ここでの温度という概念自体が根底では数字に置き換えられる物かも知れないが、
問題はそこではなく、他者から受けた情報についてメタな視点を意識した上で、
「己という物から何歩か離れた仮定」を対外的に運用するプロセスの有無。
表面的にはプロセスは重要ではないけど、プロセスが端を発するのは源泉から。
プロセスは、その人が「どういうつもりか」という事と繋がっている。
その源泉も「人間的な温度」同様に実際は数字かもしれないが、
仮に数字に還元できる情報であっても数字のフォームにはそれぞれの違いがあると思う。
もちろん見抜けるかは別で。
無機質に見える人が本当にそうなのかは判らないが、
無機質が見える自分が寒気を覚えているのは確か。
その人が他者が見えていないのではなく、
僕がその人の温度が見えていないだけなのかも知れない。
が、その人の言動から「何を優先しているか?」という源泉を、
推測で手繰り寄せた結果ではある。
より厳密に推測していく事でしか暫定の検証すらままならないのだから、
その結果を疑いつつも消去法で可能性の高さを確立して用いるしかない。
あくまでも自分の感覚を疑う事の大切さを留意しつつ、
自分の勘は経験と結果からある程度信じている。
到底、絶対的ではないという事も重々承知の上で。
すべてはなんと危ういのだろう。

201901100812

年末年始の寂寥感で精神的にナイーブな状態が割増すといった感覚は殆ど無く、
その事も年明けのムードに実感がない違和感を意識させる。
同時に昨年からの疲弊したムードを振り切れないまま地続きの様な倦怠感がある。
一年という区切りは四季の巡り以外の面で言えば社会や人間関係で作られていくのだろう。
半ば強引にでも区切りを認識する事から良い意味で精神的に断捨離される部分はありそうだ。
その点、人との関りが狭まれば精神状態の風通しも滞り易くなるし一年の感覚も薄まる。
とはいえ必ずしも精神的に密閉化するかといえばそうではないし、
今の自分の一年の感覚が希薄な理由がそこにあると言い切れる訳でもない。
それに「年末年始の精神的な変化が殆ど無い」というのは文字通りなので少しは感じる。
逆に一年という区切りについて実感とは無関係な所で意識的に意味付けをし過ぎて
今の状態を解放か密閉の両極に割り振ろうとする不自然なバイアスが
いつの間にか自分の思考に含まれている事に気付いた。
その原因として、まず昨年から地続きなのは倦怠感だけではなく、
自分の状態(精神というより総合的な自分の現在)が
制御できなくなってきている感覚についても同様であり、
そこから生じた不安が何かを決定して認識して安心したい感情を強めている気がする。
脱するには思考よりも現実的な変化・結果を能動的且つ決定的に求める行動で積み重ねるべきだ。

201901090916

ちょっとやそっとで思わないけどやっぱモロに服装を真似されると気持ち悪いな。
同性からカッコいいって言って貰えたのはありがたいけど、
だからってもういい大人な年齢の全く違う系統の服装をしてた人がそのすぐ後に、
シルエットからプリントから合わせ方まで全部そっくりな服を着てるのは露骨過ぎて流石に引く。
(まだ高校生位なら若気の至り感覚で捉えるが)
好意があればどんな表現でも歓迎されると思ってるなら客観性足りないし、
そういう道理を理解してるなら自分がそれをやってると気付けない時点で結局は客観性足りない。
敢えて細かく言えば、
服装って場を共有する人に対してパブリックな影響があるものだから
他人を意識する能力があるなら相手にどんな印象を与えるか想像するのも最低限の慎みだと思う。
しかしわざわざこんな言い方をしなくても
この程度の普遍的な気持ち悪さは「空気を読む」という位に
シンプルなざっくりした感覚で分かっていて欲しい。

201901040541

「音楽体験の中で憎悪を爆発・昇華させる」
というプロセスにポジティブな価値を見出す事が
自分の一つのテーマであり追究してきた部分。
つまり憎悪を憎悪のまま散らすカタルシスによって
聴く者がポジティブな結果に至るか否か、という段階を意識している。
しかしそういった表現ではなく、
音楽の中で「破滅的な感情が肯定へ変質していく流れ」そのものを描きたい気持ちもある。
憎悪に限らず、それは悲しみを描く場合でも同じ事を思う。
鬼哭と厭離穢土は完全に憎悪や悲しみに終始した感情を込めた曲だが
表に出していない曲では色々な試行錯誤を続けており、
今最も公開に近いものは肯定へ向かいたい気持ちを強く込めている。
公開する事で自分のモードもより肯定的な所へ向かう気がする。
また上述した感情的な側面だけでなく、
そうした抑揚をダンスミュージック的に機能する形へ
もっと落とし込みたいという気持ちも常にある。
むしろその点が最も課題に感じている部分だけど、
そこに関しても少しずつ向上している手応えがある。
全ては、まだまだこれから。