201811190545

自分が何に振り回されてるか把握した所からスタートしたい。

 

〇〇な考え方は〇〇だと思うとか、

〇〇な姿勢を忘れると〇〇になっていく気がするとか、

そういう事を考えたり言ったりするのは

自分がそれらに囚われてないと言いたい訳じゃなくて

そういう気持ちに由る所が大きい。

今そうじゃないとしてもいつそうなってもおかしくない、という事もある。

自分の事を信用していないけど無責任でいいとは思わないから。

 

僕についてこうして言葉にしてる部分しか知らなくて

後は想像で補完してる人が殆どだと思うけど

当然そんな事ばかり考えてる訳ではない。

もっと曖昧で適当でも大丈夫と思って自分にGOサインを出す事も沢山ある。

それが何故文章になるとガチガチになるのかは、

多分怖いから。

自分が感じてる事を整理して把握したい。

201811182046

優越感って乗り越えてないから感じるんだと思う。

その事物を乗り越えてたら自分が相手より優れてるからどうとか無い。

価値基準の根っこに触れてるからそこで一喜一憂する。

 

相対的な位置づけの確認として何かと比較する事と、

その比較で自分の喜びが決定づけられる事は全く違う。

201811181809

前向きに肯定的に人を見てる時の自分が一気に突き落とされる事を恐れてる。

頭の中の他人に対する冷静な捉え方は持続しない。

人は皆違う、と思ったからってストレスが消える事は無い。

そんなこと当たり前だけど。

何の申し開きもしたくない。

自分から何かした事ならともかく、

勝手に誤解されて勝手に見損なって勝手に嫌われても、

それって僕が僕だからそうなったというより、

その人がその人だからそうなったんだと思う。

インスタが楽な理由はハッキリしていて、言葉を極力使わない様にしてるから。

言葉を使わなかったら理解したつもりになられる事も殆どなくなるという安心感。

なまじ言語を共有してるから都合よく身勝手に規定されたりする。

自分の認識に疑いをもちつつ傲慢にならない様に注意しながら

丁寧な姿勢で他人の言葉に触れる人も居ると思うし、

実際そういう印象の人は居る。

でもそんな人、極少数な気がする。

一旦言葉で「こうだよね」って言いつつも内心

「それが簡単に揺らぐほど現実において

 他者を理解できた気になる事は脆い錯覚なのだ」

と自戒しながらも人と接そうとする様なバランス感覚は、

常に維持する事も自然にそうなる事も難しいかもしれないけど、

人の事を本当に知りたいなら、それで本当に知れるかはともかく、

とても大切だと思う。

他人を真に理解する事ができないから無駄、なんていう事は無く、

むしろ他人を真に理解する事は出来ないからこそ想像する事が大切だろう。

僕はニヒリストが本当に苦手だけど、

相手がニヒリスト的に映る事と、実質的にどうであるかはイコールではない。

虚無主義者が「物事に価値がないんだ。世界は虚無だ。」

と主張する事にも価値がないなら、

じゃあ自分で楽しみを生み出せよ、見い出せよ、と思うし、

それ以前に虚無主義者である事に少なくとも

何かしらの相対的な価値があると思ってる様に映る。

思惑に何の価値意識もないのに傾向は生じないと思うから。

だからこそニヒリスト的である時点で

その態度が発生する前の認識は

捻くれてないのかもしれないし、

あくまで現実に対応するためのバランス感覚や防衛手段かもしれない。

ニヒリズムとはまた違うけど

「死にたい」と言うセリフを発する行為と

実際に地面と激突して死ぬ為に屋上から飛び降りる行為は別だし、

死にたいと言ってるのに飛び降りない、とかそれは別に矛盾だと思わない。

悲観的な事を言ってるからって

多分その人は本当に嫌な目に遭いたい訳ではない、

という事と通じる部分が虚無主義者の根底にはあるのかもしれない。

201811160824

自分が不快に思う事について文章を書いたり考える時は、

他の物事よりも更に理性的な帰結を意識できる様にしたい。

感情を吐露してストレスが昇華される場合はあるけど、

後々の自分にあまりいい影響を残さない事が多い気がする。

ただし他人が見てるという理由でそれを意識し始めない様にも気を付けたい。

それもまた自分にいい影響を残さない事が多い気がする。

人に見られる事が無関係なのではなくて、

そこで左右される様な部分に軸を持たない方が良い気がするから。

201811160809

絶対的に合わない人間というのが居る。

そこで不快感を意識し続けても前進はしないけど、

かといって日常的に避けがたい距離感であれば意識しない事は難しい。

となると可能な範囲でなんとか距離を変えるしかない。

単純に関わらない様に物理的な距離を取ること。

もうそれ位でしか自分の精神衛生状態を守れない状況は確かにある。

自分が不快にならない為に相手に変わってもらう事を期待するのは殆ど神頼みだし、

かといって自分が不快にならない様に相手に対して何も感じない様にするのは

ある程度なら可能かもしれないけど物事には限度がある。

その限度を超えて誤魔化せないレベルで不快感を感じるのであれば、

物理的に距離を取るほかはない。

それは後ろ向きな発想ではない。

根本は自分の人生をより良くしたいだけだ。

201811111016

人と人の縁なんていつの間にか無くなったりするもので、

それが何だったのか特に意味がわからなくても、

あの人とのあれは一体どういう事だったのか等を自分で勝手に決めようとする。

とりあえずどういう事だったか決めておかないと、

いつまでもしつこい粘度で感傷が記憶に絡みついてくる。

感傷で気力と時間を浪費する位なら自分で納得する答えを捏造してでも先へ進む。

捏造と言えば聞こえは悪いけど生きていく中で当たり前に積み重ねてきた事。

風に揺れる花の様な漂うだけの気持ちで存在するには雑念が多すぎる。

整理しながらでないと自分の状況を抱えきれなくなりそうだから。

それを悪い事だと思う訳ではなく、ただ捏造しているという感覚だけ確かにある。

自分の心情を整理してこの先起こる事や無造作に蘇る記憶に対抗する為だけど、

捏造という自覚がある様に、自分でも本当は何も解ってない事に気付いてる。

幼稚園のバスで話しかけて初めて出来た友達とは、

中学に入って一度無視されてから話し掛けるのが怖くなり二度と話さなくなった。

もう昔の事だけどそういう事はいつまでも覚えてる。

忘れちゃいけないとか思い込んでる訳でもないし、

今その人とまた話したいと思う訳でもない。

ただその時の自分の感情とか学校の廊下の雰囲気などが、

ざっくりと写真の様に何を啓示するでもなく残ってる。

それ自体には特に意味がないのだろうけど、

記憶の写真を眺める自分が過ぎ去った戻らない時間を想起して何かを貪る。

既に確定した出来事だし、もう何度も色んな角度から咀嚼して余す事なく味を確認済。

安心して堪能する事ができるのだろう。

そんな行程はもしかしたら喉の渇きを癒す様なものかもしれない。

心も痩せて枯れる事があるのかもしれないし、

現実に対しての隠れ家となるゆとりを無意識に感傷的な記憶へ求める心の動きは、

なんとなく多くの人が持っているんだろうな、という気がする。

言葉を持て余す様な冗長な文章を書きたい時には多分相応の理由がある。

下らないからよそう、と思う前に何故そうしたくなったのか理解しようとしたり、

そこから浮かぶ理由に対して埋め合わせる行為が必要かを知るべき時もあると思う。

自分の心を締め上げる様な時間が長かった気がする。